先日職場の片付けをしていたら、一昔前のメモらしき書類がいくつか出てきた。
ちょうどわたしが試みていることと同じようなことに力を入れていたことがわかる文面に目が止まった。
そのメモの筆跡をわたしは知っている。
その筆跡の主は現在は一線を退いて、もっぱら趣味の散歩と読書に時間を費やしている。時々わたしと居酒屋での食事に付き合ってくれる、本人は医者から飲むなと言われているけど。
「その人」は、そんな筆跡を残したことをわたしには一切語らない。わたしがその筆跡を発見していることも知らないし、わたしも知らせる気はない。
わたしは「その人」を尊敬まではいかないけど、頼りにしている。仕事に対する姿勢だったり、社会に対する姿勢だったり、一般的に言えばひと癖ある人物だけど芯の通っている人だと思う。いつもわたしに「ちょっと先」を見せてくれる人であり、わたしからの変な幼稚な疑問に対しても答えを見せてくれる人である。今もそれは変わらない。
一昔前のメモの「その人」の筆跡から、わたしの想像もしていない情熱が窺えた。
単なるわたしの思い違いかもしれないけど、「その人」の背中を見た気がした。
「その人」は確かにわたしの前を歩いていたのだ、と。
世代という名の新陳代謝が行われるのが人間社会で、必ずわたしも「わたしの世代」としてその時の「社会」を構成する世代になるわけだが、その時に何を受け継ぐことができるだろうか、と心許ない感覚がある。先の世代があまりにも大きく見えて、わたしが次の「世代」として最低限その幾ばくかをその次の世代へ引き継げるだろうか、という感じの。
だけど、「その人」の背中を見た気がしたその瞬間に、引き継げるものというのは、具体的な事象とかではなく、「情熱」なのだ、とわかった。
とても青臭いのでちょっと照れるが、そうなんだと思う。
というより、「情熱」以外に引き継げるものなんて無い。時代は変わってしまうから。時代が変わって、社会的価値がシフトしていっても、大切にしたい価値への情熱は必ず後ろの世代の目に止まる。であるならば、その価値は普遍的になる。
その価値が一体なんなのかは、時が経たないと見えてこない。
が、間違いなく人が社会で人として生きていくための大切な価値だろうと思う。同じ社会に生きるひとりひとりに大切な価値が普遍的でなくてなんなのか。
奪い合う社会ではなく認め合う社会の方が、その社会で生きていく誰にとっても未来は明るいはず。その未来を遠ざける思惑というものがこの社会に存在し続けていることを早くより多くの人と共有できるように、わたしはわたしの情熱を使う。