日本社会は学問へのアクセスの機会が少ないと感じる。
主観になるが、新聞を購読していない場合や大学に在学しない場合、世界に対する問いを抱くことがそもそもあるのか、と疑問に思う。
学問の入り口が、ジブンが「知らない」状態なのだと気づくことだと思うし、「知る」こと以外にそれは無いはず。
情報を得ようと思えば得られる環境にあったとしても、情報はあくまでも情報でしかないので、「知らない」状態に気づくことにはならない。むしろ逆に「知っている」状態なのだと錯覚するのではないか。
ただ、もしその情報が「知らない」状態の気づきへ導くような内容であれば、少しは違うかもしれない。情報が疑問を連れてきてくれるなら良いと思うが、あなたに必要な疑問はこれですよ、とか教えてくれる機関があったら怖いし、たとえ誰かに教えてもらったところで一般的に考えれば、放ったらかすだろうし。
「知らない」状態に気が付くことは、世界が違って見えることで、それは「もっと知りたい」と思うことと、常に見えないものがあることを知ること。
世界には見えないものが多く存在する。情報はそれを教えてくれない。見えないものの大きさがどれだけなのかは追求して初めて見えてくるもので、大抵の場合その大きさと重さに驚く。時には恐怖感も抱く。同時に新たな疑問も生まれる。その疑問の答えを求めていく。
その繰り返しの中で普遍的なものに出会う。出会うというよりは積み上がっていくような感覚がある。おそらくどの分野を追求しても同じような感覚になるのではないだろうか。
学問は人智を超えることはできないが、その範囲において本質をぼんやり見せてくれる。
この世界においてジブンという存在がどこにどのように立っているのか、ジブンの思考とはどこからなのか、ということを考えさせられる。とてもエキサイティングである。
知らない方が良かったと思う瞬間もあるが、知ってしまったからには知らなかった状態には戻れないし、広がり続ける世界の魅力には勝てない。
今を生きる全てのヒトにこの世界の広さを知って欲しい、と思う。
追求して初めて見える世界があることを知ってほしい。
その機会を全てのヒトに保障すべきだと強く思う。