#NoHateTVをYoutubeで3週間分ぐらいをいっきに観た。最近の”高齢者は集団自決しろ”とか、平和教材から「はだしのゲン」が削除されることとか、2013年の新大久保コリアンタウンでのヘイトスピーチから10年経った「いま」との比較とか。
#NoHateTVなので一貫して差別は許さない視点でのやり取りが続いていく。知らないことがたくさん耳に入ってくる。”知らないこと”と言ってもわたしが生まれていない時代の話もあれば、たった数年前の出来事の話もある。そこで明らかにされていくのは日本社会が壊れていく過程なんだけど、「いま」は、この10年間で、より深刻になっていて、え〜と…情報と考えがうまくまとまらない…なのでちょっと脳内を整理。
日本には被差別部落が存在していたことから、現代に至るまでずっと差別が社会にあったことが推測できるが、2013年の新大久保のコリアンタウンでの毎週のヘイトスピーチデモは当初は”差別”ではなく、”表現の自由”だと認識されていたようです。この物言いは現在進行形だけど、ヘイトスピーチに関しては「ヘイトスピーチ条例」が2016年に施行された。だけど、差別を法的に制約するものは日本には存在しない。
しかし「差別」が日本社会に絶対的に存在することは可視化された、誰の目にも。
障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律、はある。”不当な差別的取り扱いを禁止し、合理的配慮を提供すべきことを定め”た法律だと https://bit.ly/2qLbCuS 。まず差別的取り扱いの意味が漠然とし過ぎてるし、これで差別がなくせるのか?て誰もが疑問を抱くのではなかろうか。
これは、「差別」を無くしたくない、と思ってる?
「差別」を全面的に禁止すると、社会に何が起こるのか。概ねポジティブな影響が起こる可能性が高いとしか思えない。
「差別」は必ず「弱いもの」へと向けられている。「弱いもの」になりたくない人たちは「強いもの」の側に立つ、んだろうけど、そういう「選択」が可能な立場がそもそも「特権」だということが最近はだんだん世の中に浸透してきてる。わたしもそのひとり。
社会における強弱という概念は、社会自体が生む構造であって「政治的」なもの。「政治的」なものに影響を受けない人は社会に存在しないし、個人が無自覚のうちに自身に反映させるもので、ということは、社会における強弱には「政治的」な意図がある、と考えるのが自然だ。
そう考えると、特に現政権なんて誰もが知ってる通り極めて「差別的」なので、そういう政権与党を内閣に抱える 日本社会が「差別的」な構造になるのは推して知るべし、みたいな。ていうより現実にそうだしね。統一協会という反共組織と長年繋がってきてることも明白になった。
「反共」はシンプルに言えば「反民主主義」と言える。現政権与党は、明らかに反民主主義。だから、「強いもの」だけの「民主主義」の確立を狙い、ずっと積み上げてきた。
今後も現政権が権力を維持する限り、差別は無くならないどころかきっと拡大する。
差別は絶対に許してはならない。
人間の世界から戦争は絶対になくならない、みたいなことをユダヤ人が言った、という一文を読んだことがある。これはきっとその通りなんだろうと思う。だからこそ、戦争を絶対に起こさない意志が必須。
社会にどれほど民主主義が浸透していても、戦争を拒否する意志がなければ、戦争は必ず起こる、ということだと思う。
差別も近いものがある。絶対に許さない意志をひとりひとりが持ち、社会に訴えていかねばならない。人類がこの地球に存在し続ける限り継続して訴えていかねばならない。