壊れない世界

世界が”壊れる”ことを現実に起こり得ることだと信じていた。

でも、10月7日の5000発のミサイルから今日に続く報復にまつわる歴史と、そこで生きて発信される情報とメッセージに触れるなかで、世界が壊れることは絶対にあり得ないことで、その存続が地獄を引き起こすこととそこで苦しむ人の数を増やしていくことが現実なのだとやっと気づいた。

シリアのヤルムークで生まれたパレスチナ人のアブドゥッラーさんが製作した映画についてのインタビュー記事で、「パレスチナ人というのは個人ではなくて一つの社会」というくだりにハッとさせられた。

記事だからどういう表情で語った部分なのかはわからないけど、自然に出された表現に思えて、この表現が自然に出てくる文化は、わたしの属する文化とは種類の違うものだと思った。

わたしは「パレスチナ人」を社会だとは認識していなかった。個人だとも認識していなかった。「パレスチナ人」という人がいる、という表面的な認識として使っていた。

なぜなら、わたしは自分を「日本人」だと認識しているから。

なぜなら日本で生まれて日本で暮らしているから。

アブドゥッラーさんは、シリアのヤルムークで生まれたパレスチナ人だから、彼自身をそのまま表現していた。シリア生まれのパレスチナ人だ、と。

生まれた場所で暮らせる人は、自分のアイデンティティが社会と一致しているから、その区別が曖昧になるんだと思う。その区別の必要性がないから。

そして、その社会で生きていることを自然なことだと認識している。

でも、社会で生きることが真に抵抗することにつながる世界が存在してて、その環境は、わたしが生きている世界と同じだとは思えないほど厳しく残酷で、終わりの見えない苦しみの中を生きている人がいる。

その苦しみは1948年から現在に続く。

イスラエルが、パレスチナ社会を破壊したいと望んでいたとしても、それは不可能で終わらない試みだ。なぜなら、パレスチナ人一人ひとりは生きていくから。ガザもヨルダン川の西岸も、イスラエル国にはならない。ユダヤ人の歴史がそれを証明しているのではないのか。

世界をぶっ壊す以外にパレスチナの地を手に入れることなんて不可能だと思う。

でも世界は絶対に壊れない。過酷な人生を強いられる人が増えていくだけで。

だけど攻撃を止めれば終わらせることができる。過酷な人生から解放できる。

それでいいじゃないか、と思う。なぜダメなのか。

アブドゥッラーさんの記事の終わりは、

「誰を助けるかではなくて、助ければいいのです。誰に対して、ということではなく、何かすることです。ヤルムークに来て人々を助ける必要はないのです。日本で自分の身の回り
を見れば、そこにはきっと困難な状況に苦しむ人々がいるでしょう。そうした人たち
のために何かをすることです。」

わたしの中のダブスタを自力で解消しないなら、わたしは加害の側に立ち続けることになる。それだけは絶対に嫌だ。

もし、日本社会からあらゆる差別をなくすことができたなら、過酷な人生から解放される人が世界にも増えるだろうか。

引き継ぐ

先日職場の片付けをしていたら、一昔前のメモらしき書類がいくつか出てきた。

ちょうどわたしが試みていることと同じようなことに力を入れていたことがわかる文面に目が止まった。

そのメモの筆跡をわたしは知っている。

その筆跡の主は現在は一線を退いて、もっぱら趣味の散歩と読書に時間を費やしている。時々わたしと居酒屋での食事に付き合ってくれる、本人は医者から飲むなと言われているけど。

「その人」は、そんな筆跡を残したことをわたしには一切語らない。わたしがその筆跡を発見していることも知らないし、わたしも知らせる気はない。

わたしは「その人」を尊敬まではいかないけど、頼りにしている。仕事に対する姿勢だったり、社会に対する姿勢だったり、一般的に言えばひと癖ある人物だけど芯の通っている人だと思う。いつもわたしに「ちょっと先」を見せてくれる人であり、わたしからの変な幼稚な疑問に対しても答えを見せてくれる人である。今もそれは変わらない。

一昔前のメモの「その人」の筆跡から、わたしの想像もしていない情熱が窺えた。

単なるわたしの思い違いかもしれないけど、「その人」の背中を見た気がした。

「その人」は確かにわたしの前を歩いていたのだ、と。

世代という名の新陳代謝が行われるのが人間社会で、必ずわたしも「わたしの世代」としてその時の「社会」を構成する世代になるわけだが、その時に何を受け継ぐことができるだろうか、と心許ない感覚がある。先の世代があまりにも大きく見えて、わたしが次の「世代」として最低限その幾ばくかをその次の世代へ引き継げるだろうか、という感じの。

だけど、「その人」の背中を見た気がしたその瞬間に、引き継げるものというのは、具体的な事象とかではなく、「情熱」なのだ、とわかった。

とても青臭いのでちょっと照れるが、そうなんだと思う。

というより、「情熱」以外に引き継げるものなんて無い。時代は変わってしまうから。時代が変わって、社会的価値がシフトしていっても、大切にしたい価値への情熱は必ず後ろの世代の目に止まる。であるならば、その価値は普遍的になる。

その価値が一体なんなのかは、時が経たないと見えてこない。

が、間違いなく人が社会で人として生きていくための大切な価値だろうと思う。同じ社会に生きるひとりひとりに大切な価値が普遍的でなくてなんなのか。

奪い合う社会ではなく認め合う社会の方が、その社会で生きていく誰にとっても未来は明るいはず。その未来を遠ざける思惑というものがこの社会に存在し続けていることを早くより多くの人と共有できるように、わたしはわたしの情熱を使う。

#わたしの孤独

少し前だけど、6月14日に国会前で行われた、インボイス制度反対集会をyoutubeのライブ配信で観てた。

そこで順番に発言するそれぞれの業界の人たちの言葉に、感動した。なんていうか真っ直ぐに訴えられた言葉、だったから。何かを背負ってるのではなく、その人自身から出た”その人”が、その言葉にあった。

そういう風に誰かの言葉を感じたことが今まで無かった、みたいに感動した。

自由、とか言ってしまうと誤解を生むだろうけど、それだと思った。言葉の受け手が誰なのかとか、どう受け止められるのか、とかが多分ほぼ考慮されていない言葉だった。正直な言葉だった。人を信じてる言葉だった。多分聞き手が同じ社会に暮らす人であるなら、その言葉が誰かを傷つけることはないだろうと思う。

最近のわたしの周辺の言葉が、どれほど荒んでいるか、がわかってしまって、しかもわたし自身がわたしを言葉にしていなかったことを思い知らされた。

それぞれの業界の人たちの言葉は、純粋に自分たちの幸せとそれを支える人たちや共有する人たちの幸せを願う言葉で、個人的なのに世界が大きかった。

不思議なんだけど、直接わたしに向けられた言葉のように感じられて、泣けた。優しい言葉だったんです、わたしにとっては。

そこに居るのか居ないのか、すらもジブンじゃ決められなくて、居るよと訴えることもできず、存在感を得るために頑なになってた。その状態は、わたしが望んでる状態ではなく、だからこそジブンがかわいそうにならないように、慎重に言葉や思考を選んで、すごく疲弊する日々で、それが普通になってた。

そういうわたしに、あの集会で発言された言葉がどれほど響いたか。もうこれはなんと言おうとわたしにしかわからない。

生き方を変えよう、と思った。可能かどうかは別として。

意地をはる

頑固に自分の考えや行動を押し通そうとする、こと。goo辞書に書かれていた。

わたしが思っていたイメージとちょっと違っていて、あ、そうだったんだ、と少し驚いた。

意地をはるということは、ホントはやりたいな、と思っていてもやらずに我慢する、みたいなイメージを持ってた。なのでgoo辞書の一文とはちょっと違う。

わたしの今まで生きてきた時間の中で、自分の考えや行動に固執したことがどれくらいあるかを振り返ると、割とある、気がする。

とか書いてるけど、正直言えば、そこまで自分の時間を正確には思い出せない。だけど、わたしの性格的に、自分の考えや行動に固執することはあって然るべき、だとわたし自身が思う。

嫌だと思ったことを嫌だと言うことは、意地をはることなのか?それがたとえば誰かが良かれと思って勧めてくれたことだとして、それに対してわたしが嫌だということは、わたしが自分の考えや行動に固執している、ことになるのか。

なんかよくわからん。

それを意識して過ごしてきていないし。わたし自身がやりたいことをやってきてる、という感覚はある。ただ、無意識に意地になってる側面はあるだろうと思う。だって無意識だから。やりたいとは思っていないことを無理にやってみる、とかはしてきてない。

なので意識して、やろうと思ってないことをやってみる、とか?

自分で思うわたしが、本当は(?)ぜんぜん違うのかも知れない。それはあり得る。物心がついた時から、わたしはわたしだ、つって現在まで過ごしてきてる。ここを疑うことなんてしてきてない。

この”わたしはわたしだ”に、わたしは固執してるのかもしれない。

国土

ジブリ映画の『天空の城ラピュタ』で、追い詰められたシータがムスカに向かっていうセリフに、”土から離れては生きていけない” というのがある。

それを言ったシータの凛とした声色が低学年であったわたしに響いた。多分その内容について当時のわたしは深く思ってはいなかったはず。

だけど最近そのセリフの意味を考えずにはいられない時間をもった。シオニズムに関する書籍を読んで。正確にはまだ読んでるところ。

その書籍には、ユダヤ人の、「自分たちの国土」を持つことに対する悲痛なほどの”渇望”が書かれているのです。それがゆえに、と言っていいのかわからないが、パレスチナ人に、現在に続く厄災をもたらす。

わたしが生まれる前から「日本」という国土があって、幸運にもわたしは「日本人」としてその国土で生きているので、国土を持たない、ということを経験することは恐らく生きている間にはないし、その国土内であれば法的には権利の保障もされている。例え海外で差別にあったとしても、日本という国土へ帰ってくれば、少なくとも同じような差別はない、という感覚を持つ。イヤ、実際はあるけどね、迫害はされない、というレベル。

国土を持たないユダヤ人は、この世界のどの土地に居ても、その民族性を法的に保障されず、差別を受ける。同化を迫られ、それを拒否すれば待ち受けるのは排斥であり、ナチスによる民族大虐殺である。だから彼らは、彼らの「国土」を渇望するに至る。

「国土」が、彼らが”彼らとして”生きていける唯一の道だと。

シータの言う”土”は「国土」でもあるのか、と胸に迫るものがあった。

加えて、現在に続くイスラエルとパレスチナの状況を思うと、「国土」はかくも得難いものであるという事実に胸がえぐられる。

パレスチナ問題に関してあまりにも自分が浅学なので、いろいろ述べることに恐怖を感じるが、パレスチナという国土にイスラエルという国土を建てる、ことをパレスチナ人でもユダヤ人でもない国の人たちが決めた、ということに関して、大国の傲りというのか傲慢というのか、その根っからの差別意識みたいなモノに、身体の内側が冷たくなる。

いわゆる「戦争」は、”境界線”を巡ってのものである、とどこかで読んだことがある。

ひとたび一方的に”境界線”を引けば争いがひき起こされる、ということであるのなら、パレスチナ問題はまさにそうやって引き起こされた、それも部外者によって。加えてその動機が、差別によるものである、と言える。

地上から戦争は無くならない、と言ったのはユダヤ人だったと記憶している。

もし差別をなくすことができるなら、ユダヤ人は「国土」をもつことができるのか。

生まれた土地が「国土」になり得ないのはなぜなのか。法治国家とはなんなのか。

差別と被差別が覆らないシステムとしての、「国土」なのか。

脳内整理

#NoHateTVをYoutubeで3週間分ぐらいをいっきに観た。最近の”高齢者は集団自決しろ”とか、平和教材から「はだしのゲン」が削除されることとか、2013年の新大久保コリアンタウンでのヘイトスピーチから10年経った「いま」との比較とか。

#NoHateTVなので一貫して差別は許さない視点でのやり取りが続いていく。知らないことがたくさん耳に入ってくる。”知らないこと”と言ってもわたしが生まれていない時代の話もあれば、たった数年前の出来事の話もある。そこで明らかにされていくのは日本社会が壊れていく過程なんだけど、「いま」は、この10年間で、より深刻になっていて、え〜と…情報と考えがうまくまとまらない…なのでちょっと脳内を整理。

日本には被差別部落が存在していたことから、現代に至るまでずっと差別が社会にあったことが推測できるが、2013年の新大久保のコリアンタウンでの毎週のヘイトスピーチデモは当初は”差別”ではなく、”表現の自由”だと認識されていたようです。この物言いは現在進行形だけど、ヘイトスピーチに関しては「ヘイトスピーチ条例」が2016年に施行された。だけど、差別を法的に制約するものは日本には存在しない。

しかし「差別」が日本社会に絶対的に存在することは可視化された、誰の目にも。

障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律、はある。”不当な差別的取り扱いを禁止し、合理的配慮を提供すべきことを定め”た法律だと https://bit.ly/2qLbCuS 。まず差別的取り扱いの意味が漠然とし過ぎてるし、これで差別がなくせるのか?て誰もが疑問を抱くのではなかろうか。

これは、「差別」を無くしたくない、と思ってる?

「差別」を全面的に禁止すると、社会に何が起こるのか。概ねポジティブな影響が起こる可能性が高いとしか思えない。

「差別」は必ず「弱いもの」へと向けられている。「弱いもの」になりたくない人たちは「強いもの」の側に立つ、んだろうけど、そういう「選択」が可能な立場がそもそも「特権」だということが最近はだんだん世の中に浸透してきてる。わたしもそのひとり。

社会における強弱という概念は、社会自体が生む構造であって「政治的」なもの。「政治的」なものに影響を受けない人は社会に存在しないし、個人が無自覚のうちに自身に反映させるもので、ということは、社会における強弱には「政治的」な意図がある、と考えるのが自然だ。

そう考えると、特に現政権なんて誰もが知ってる通り極めて「差別的」なので、そういう政権与党を内閣に抱える 日本社会が「差別的」な構造になるのは推して知るべし、みたいな。ていうより現実にそうだしね。統一協会という反共組織と長年繋がってきてることも明白になった。

「反共」はシンプルに言えば「反民主主義」と言える。現政権与党は、明らかに反民主主義。だから、「強いもの」だけの「民主主義」の確立を狙い、ずっと積み上げてきた。

今後も現政権が権力を維持する限り、差別は無くならないどころかきっと拡大する。

差別は絶対に許してはならない。

人間の世界から戦争は絶対になくならない、みたいなことをユダヤ人が言った、という一文を読んだことがある。これはきっとその通りなんだろうと思う。だからこそ、戦争を絶対に起こさない意志が必須。

社会にどれほど民主主義が浸透していても、戦争を拒否する意志がなければ、戦争は必ず起こる、ということだと思う。

差別も近いものがある。絶対に許さない意志をひとりひとりが持ち、社会に訴えていかねばならない。人類がこの地球に存在し続ける限り継続して訴えていかねばならない。

幼い頃はトラックの運転手になりたかった。

保育園に通っていた頃、お誕生日カードを作る過程で保育士さんがわたしに聞き取りをしたら、こういう答えが返ってきて、カードの「大きくなったら」欄にそのまま記入された。

あまり記憶力は良くないので意外だが、自分がこう答えたことはうっすら憶えている。よくわからないけど幼目にはトラックというはるかに大型の機械を運転手がひとりで動かしている、ということがとてつもなくすごいことに見えて、自分も動かしてみたい、とでも思ったんだと思う。

その後、小学校に上がったときには「大きくなったら」は、「テニスの選手になりたい」に変わっていたようだ。で、現実はというと、一般的なデスクワーク労働者に落ち着いています、運動不足です、免許証もうっかり更新し忘れて失効しました。

ただ、現在も大型トラックが荷物の搬入のために地元にあるスーパーの裏側の狭い道に面した狭い搬入口にバックで入って行くところなんかをじっと見る。当たり前だが一発で荷下ろしのためのスペースに付ける。なんともかっこいい。

わたしも運転免許証のために教習所へ通ったので、バックの操作の感覚がなんとなくあって、セダンサイズならともかく、あの大型サイズの操作を完璧にこなすって、なんというか、かっこいい以外に言葉が思いつかない。

あと、大型トラックとはちょっと違うし線路はあるにしろ、電車の運転士にも同じようなスキルを感じるので、すごいよなーと思う。朝の通勤時にはかなりの人数を収容する8両もの列車を操作する、て、いったいどんだけの空間認識能力なんだ!となぜかそのスキルに爽快感を覚える。自分のスキルじゃ全然ないのに。

思うに、素晴らしい能力とか技術などは、自分の手にしたときは確かに誇らしいだろうと想像するが、それを目撃できた時、また別の高揚感がある。自分だけがすごいものを目撃した!ていうお得感なのか?とも考えたが、それを「お得」だと感じるのはその能力や技術に対して憧れを抱いている場合に限られる。憧れを抱くのは、その技術や能力の還っていくところが純粋にこの世の誰かの役に立っている、ところだからだと思う。